☞「心の丸窓」は心の杜の医師・心理師による心の診療に関するコラムです。
先日漆黒の闇に沈む原野で、満天の星空を仰ぎ見る機会がありました。冬にもかかわらず天の川が夜空を雄大に流れています。素人の私にもすぐに見つけられるオリオン座や北斗七星。そんな天球を、ときに一瞬の輝きがスーッと流れて、消えます。双子座流星群です。その天体ショーは、凍えるほどの寒さをしばし忘れさせてくれる見事なものでした。
ところで双子座そのものはいったいどこにあるのでしょう。星図によれば、オリオン座から北斗七星に向けて天の川を渡った辺り。ひときわ強く輝く2つの星を筆頭にほぼ平行に並ぶいくつかの星たち。あれが双子座のようです。大昔の人々は、そこにギリシャ神話の双子カストルとポルックスが天に上った姿を思い描いたのです。予備知識がなければ、私にはそこに双子の姿を見いだすことなど到底できません。大昔の人々は、神話をとても身近な世界として心の中に抱き、夜の天球というスクリーンの上にそれらを映し出し、輝く星たちの配置を頼りに双子の像を結ばせたのでしょう。心の中に抱くさまざまな思考、空想、イメージなどを自分の外の世界に映し出し、あたかもそこにそれらがあるかのように思い描くこのような心の働きを、心理学では「投影」と呼んでいます。私たちはことさらに意図しないうちにこの投影を巧みに用いて、外の世界を吟味し、捉え、体験しています。それは私たちの心の営みを創造的で、とても豊かなものにしてくれます。子供たちはとりわけ巧みな投影の使い手です。たとえば「ごっこ遊び」で子供たちは、ある子をお父さんに、ある子を赤ちゃんに、そして自分をお母さんに、砂の団子や泥水、摘んできた草花をご馳走に見立て(投影し)、心の中の望みや空想を外の世界に上手に現実化して楽しむのです。
一方でこの投影は厄介な事態を招くこともあります。「疑心、暗鬼を生ず」の成句にあるように、疑う心が闇に投影されると、そこに本来はいない亡霊がいるかのように見え、無用な怯えと混乱が生じてしまうこともあるのです。「暗闇」、つまりそこに実際には何があるのか分からないという情報の乏しい状態が投影を活発にさせてしまいます。コロナ禍の只中を生きる私たちは、いろいろな意味で暗闇の深い状況に置かれていると言えます。未経験の事態のために、数ヶ月先の世の中すら「暗闇」の中にあり、見通すことができません。また人と接する際にはマスクを着用せねばなりません。口元の動きなど表情の半分以上が、いわばマスクの向こうの「暗闇」の中に隠されています。テレワークが推奨され、メールや音声通話でのコミュニケーションを余儀なくされると、視覚的な情報は「暗闇」の中に隠れてしまいます。ビデオ通話は視覚的な情報を補ってくれますが、同じ空間を共有しているわけではないので、その四角い画面で切り取られた世界以外は「暗闇」の中ですし、五感のうち視覚と聴覚以外の情報(触覚、嗅覚、味覚)はやはり「暗闇」の中に隠されているのです。さらに感染の不安、経済的困窮の不安などさまざまな深刻な不安が心の中に渦巻いています。こうした今日の状況によって、それらの不安は疑う心となって相手や外の世界に投影されやすく、その結果そこに「暗鬼」が姿を表し、過剰な不安や人間関係の混乱を招きやすくなっているのです。
そのような状況の中で、私たちにはどのような対処が求められるのでしょう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」。暗闇に白い影が揺れ、幽霊が立っていると怯えたけれど、よくよく見るとそれは単なる枯れ尾花(枯れススキ)だと分かってほっとする。つまり、目を凝らして現実をよく見極めること、そのために正確な情報をできるだけ多く手に入れることはとても重要です。人との関わりにおいても、誤解や疑念の余地を少なくするために、分かりやすく丁寧な情報の交換と共有に心がけましょう。分からない「暗闇」の部分があっても、自らの不安に振り回されて「鬼」や「幽霊」だと決め付けることなく、分からない部分は分からないものとして保留しておく心のゆとりを持ちましょう。コロナ禍が終息して渦巻く不安が萎み、人々が同じ空間を共有し五感を通じて直に触れ合える日が来るまで。そして心のうちに抱いた夢や希望を、より健全な形で外の世界に投影し、豊かに、そして創造的に外界と関わり、楽しむことのできる、そんなあたりまえの日常が戻る日まで。
(カラマツ林の梟)