☞「心の丸窓」は心の杜の医師・心理師による心の診療に関するコラムです。
私たち精神科医・心療内科医は、日々の診察の中で患者さんと向き合って診断する際、主に2つの診断基準を参考にしています。今回はそのことについてお話しします。
診断基準の1つは、世界保健機構WHOによる「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」(英名:International
Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)で、頭文字をとってICDと呼ばれるものです。現在は1990年発表の第10改訂版ICD-10が使われています。もう1つはアメリカの精神医学会による「精神疾患の診断・統計マニュアル」(英名:Diagnostic
and Statistical Manual of Mental Disorders)で、頭文字を取ってDSMと呼ばれるものです。DSMはこれまで第4改訂版(DSM-Ⅳ-TR)が使用されてきましたが、昨年第5改訂版(DSM-5)が導入されました。ある調査によれば、統合失調症、躁うつ病、神経症の分野において精神科医が診断する際、その9割弱がICD、もしくはDSMに基づいているとのことで、欧米同様わが国においてもそれらの基準が広く浸透していることがうかがわれます。
この2つの診断基準の歴史の中で最も衝撃的だったのは、1980年のDSM-Ⅲの登場でしょう。そこでは、明確な操作的診断基準が初めて導入されたからです。操作的診断基準というのは、病気に特徴的な複数の症候(例えばうつ病なら、不眠、食欲低下、気分の落ち込みなど)のうち何項目が患者さんに該当するかに基づいて診断を決定するというものです。ICDの方もICD-10から操作的診断基準を導入しています。この操作的診断基準の登場により、それまで各医師の主観に偏りがちだった心の病の診断に、一定の客観性が持ち込まれた
ことは画期的なことでした。しかし一方でそれは、表に現れた症候にのみ注意が払われ、その背景にあるその方その方の歴史や、発症に至る経緯、病を長引かせている要因といったものを軽視する危険性を孕んでもいます。例えば操作的診断基準で同じ「うつ病」と診断しうる2人 の患者さんがいたとしても、片や残業などの過酷な労働状況の中で疲れ果てて発症し、片や愛する伴侶を病気で亡くして発症したという大きな違いがありうるのですが、それが見落とされてしまいかねないのです。そしてこの違いを見立てておくことは、どのように治療を組み立て、進めるかを考える上で欠かせないこと なのですから、この危険性について私たちは常に意識しておく必要があります。私たちは症候に着目した診断基準によって導き出された診断名だけにたよらず、
それらの背後にある患者さん各々の体験と心に寄り添った診療を心掛けて行きたいと考えています。
(湖底の月 記)